善照寺|真言宗豊山派|新潟県 刈羽・柏崎

本寺〒945-0304新潟県刈羽郡 刈羽村大字寺尾233 電話0257-45-3140メールmandarasan@zenshouji.or.jp 別院〒359-1164  埼玉県所沢市三ヶ島1丁目722-11 電話04-2949-8977

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光明真言(こうみょうしんごん)

光明真言

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~眞澄の解説

私が子供のころ、祖母に口伝えで教わりました。「おーんあーぼーおーきゃー♪」と節つきです。
越後には古くから、「雨垂れ節」(あまだれぶし)というものがあります。光明真言にリズムと音階をつけて、歌のようにお唱えするのです。その唱え方があたかも、雨の日に屋根から雨垂れが「ピチャンピチャン」と落ちてくるときのようだということで、「雨垂れ節」と名づけられました。

越後の各寺院では春と秋のお彼岸の中日に、お檀家さんがお寺に集まってご先祖様方の供養会を行います。そのとき住職を先頭に光明真言を雨垂れ節で唱えながら、本尊様の周りを3回廻ります。全国でも珍しい法要です。この音階は「博士」(はかせ)といって、仏教の楽譜でもあらわすことができますが、お檀家さんがたは、親から子へ、孫へと口伝えで教え、自然に覚えます。大概はおばあちゃんが、孫と一緒にお風呂に入りながら、教えているようです。
「夜、怖い夢をみたら、真言を七編唱えなさい。そしたらぐっすりと眠れるよ。」
「試験の前や、スポーツの試合の前などに、緊張したときは、この真言を唱えなさい。不思議に落ち着いて、自分の力を出せるよ。」などと、教えたものです。
しかし、最近は二世帯住宅などが流行り、お年寄りと孫が一緒に生活することが少なくなってきました。残念ですが、時代の流れというものでしょうか。その分僧侶が大勢の皆さんに、この光明真言の御功徳を伝えていかなければならないと思います。
真言をお唱えするときは、合掌をします。真言宗では両手の指を互い違いに組み、右手の親指が上になるようにします。金剛(こんごう)合掌といいます。そして真言は正確に発音し、間違えないように唱えます。心には、「我は仏と等同なりと感ぜよ」というのですが、少し難しいので、「仏さまを心から信仰し、尊敬します。」と思うことが大切です。これを三密(さんみつ)の修行といいます。三密とは身と口と意です。身が金剛合掌、口が真言、意が信仰です。この三つが揃うと、仏となることができるのです。「即身成仏」(そくしんじょうぶつ)です。この身このままで、仏となる。真言宗では仏になるための道筋をしっかりと示しているのです。十善戒の実践もまた、この三密の修行なのです。
心から一心にお唱えしましょう。

こちらもご一読ください
光明真言の救い」(真言宗豊山派総合研究院院長 加藤精一)

 

 

ともしつごう こころのあかり

ともしつごう こころのあかり

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~眞澄の解説

善照寺は真言宗豊山派に属するお寺で、私自身もこれに所属する教師(僧侶)です。
先日近所のお寺さんの息子さんから電話がありました。学校の授業で将来希望する職業を短い論文にまとめるという、課題が出たそうです。
そこで、「僧侶とは何ですか?」という、まっすぐな質問をされました。電話で簡単に話せることではないと思いましたが、彼は真剣です。一瞬迷いましたがなるべく誠実にわかりやすく答えました。

仏教で最も大切なものは仏・法・僧の三寶(さんぼう)です。
「仏」と「仏の教え」と「これを広める僧侶」なのです。
要約してみるととても簡単なことでした。我々僧侶は仏様を心から信仰する。仏様の教えを学び、修行して、実践を重ね、我が物とする。そしてその教えをより大勢の人に広め、人生の苦から救われる道を示すことなのです。
これが「ともしつぐべき、こころのあかり」なのです。

真言宗の教えは弘法大師様によって完成されましたが、現代を生きる私たちは弘法大師様の背中を追いかけるのではなく、弘法大師様が求められたものを、私たちもまた、追い求めなければならないのです。それは「即身成仏」なのです。これが究極の目標なのです。生身の体のまま、この身このままで成仏なんてできないと、少しでも疑念を抱いては、前に進むことはできません。揺るぎの無い信仰を持つことが大切なのです。

 

 

六波羅密(ろっぱらみつ)

六波羅密

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~眞澄の解説

布施(ふせ)
 お布施というとすぐに金銭を連想するかも知れませんが、お布施には「財施」(ざいせ)と「法施」(ほっせ)と「無畏施」(むいせ)の三種類があります。布施をする人を檀那といいます。だから菩提寺に布施をする家を檀家というのです。財施とはお金や衣服食料などの財を施すことで、法施とは仏の教えを広めること。無畏施とは災難などにあって困っている人を助けて、その恐怖心を除くことなのです。
そのほかにも「無財の七施」(むざいのしちせ)があります。1「身施」、肉体による奉仕。2「心施」、他人や他の存在に対する思いやり。3「眼施」、やさしいまなざしすべての人々の心を和やかにする。4「和顔施」(わげんせ)、柔和な笑顔を絶やさない。5「言施」、思いやりのこもったあたたかい言葉をかけること。6「牀座施」(しょうざせ)、自分の席をゆずること。7「房舎施」(ぼうしゃせ)、わが家を一夜の宿にかすこと。
大震災や大きな災害で多くの人がボランティアに携わったと思いますが。まさしくこの布施行の実践であります。善照寺のお檀家さんで、週に3日くらい、ずっと通ってこられる方があります。こつこつと庭の手入れをされています。誰に頼まれたわけでもなく、ただひたすらに作業をされています。尊いことだと思います。

持戒(じかい)
 持戒とは戒を守ることですが、まさしく「十善戒」(じゅうぜんかい)の実践であります。ひとつひとつの戒を見てみるとどれもあたりまえのことで、実践はたやすいことのように見えますが、常にすべてのことを、24時間、生涯にわたって守ることはとても難しいことです。もしも、確実に実践できたなら、すでに仏となることができます。「即身成仏」(そくしんじょうぶつ)です。しかし私たち人間は弱い存在です。ときには貪りの心、怒りの心、愚かな心にながされ、罪を犯してしまいます。そんなときには、すぐに反省することが大切です。懺悔(さんげ)です。そしてまた「三密の行」を実践し続けなければなりません。瞬間の成仏をより多く、長い時間継続できるように努力しましょう。

忍辱(にんにく)
 耐え忍ぶこと。忍の一字であります。人間関係のトラブルの原因は大概がかっとなってしまった結果です。あるお檀家さんの家に「忍辱」の書があります。先々代の住職が書いたものです。その家のおじいさんは若いときから、大変気が短く、ついつい周りの人と喧嘩になってしまいました。お酒を飲んでは家族の人に怒鳴り散らすこともありました。このことを大変反省したおじいさんは、住職に相談し、「忍辱」の教えを授かりました。それ以後本人はとても努力をし、晩年は総代として寺にも尽くされました。私の記憶では、威厳のある、温厚なおじいさんのイメージしかありません。

精進(しょうじん)
とにかく努力すること、一生懸命、一所懸命に努力すること。これは誰かのためではなく、自分のための行です。目標を設定し、着実に継続する姿は尊いと思います。仏様は毎日休まずお勤めをしても、「よくやっているね」などと褒めてはくれません。そのかわり、少し怠けたからといっても怒ることもありません。仏前にお参りする、ご先祖様にお線香をあげるということは、自分自身を参っていることなのです。自分の中にはご先祖様から受け継いだ大切なものがあり、心の中には仏性があるのです。当たり前のことですがとても奥の深いことだと思います。仏様の御教えにより、向上心をもって「日々是精進」を心がけたいものです。

禅定(ぜんじょう)
精神を集中して、静かに考えること。仏道を修行しても、そのおこないが身につかなければ、成果は期待できません。仏の教えに触れ、確実に実践していくには、確かな信仰にもとづいた、不動心が必要です。回りからの誘惑に負けないためには日頃より訓練することが大切なのです。朝夕に仏前でお参りをし、今日一日の自分の言動と心の状態を点検しましょう。毎日少しの時間でよいので、心静かに考えてみましょう。

智慧(ちえ)
真理を見ぬく洞察力。人は時々先入観念から、誤った見方をしてしまいます。「あの人は○○らしいよ、変わった人みたいだから付き合わないほうがいいよ。」など、何の根拠も無く、自ら確認したわけでもないのに、他人から聞いた話を鵜呑みにして、間違った行動を起こすこともあります。いじめや差別などはこの典型的な過ちです。実に悲しいことです。これは、した側も、された側も悲しむべき行為なのです。このような過ちを犯さないために正しい智慧を見につけなければなりません。仏の智慧は何からも影響を受けず、堂々としています。これを学び、真理を見ぬく目をもって、正しい判断に基づいた行動をしたいものです。

 

 

十善戒

真言宗の究極の目指すところ、目標は「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」です。この身このままで仏に成るということです。
ではどうすれば、仏に成ることができるのでしょうか。それも生きている、生身の体で。
弘法大師様は、具体的にその方法をお示しになっておられます。

人間の営みは、身(み)と口(くち)(語(ご))と意(い)の三つの仕業(三業(さんごう))から成り立っています。仏の境地も「身(しん)・口(く)・意(い)」の三密(さんみつ)から成り立っています。基本的な構成要素が同じなのですから、自身の三業を仏の三密に、常に、同調させることができれば、仏に成ることができるのです。あるいは一瞬でもその境地に至ることができれば、瞬間成仏(しゅんかんじょうぶつ)したことになります。その境地を体験できたのならば、あとはその時間の長さ、回数を増やすことを努力すればよいのです。さて、具体的に何を、どのように実践すればよいのでしょうか。

まずはじめに、「身・口・意」の「身」。行動です。三つのことを実践します。
「不殺生(ふせっしょう)」むやみに生き物を殺さない。
「不偸盗(ふちゅうとう)」盗みをしない。
「不邪淫(ふじゃいん)」男女の道を外さない。

次に「身・口・意」の「口」。言葉です。四つのことを実践します。
「不妄語(ふもうご)」ウソをつかない。
「不綺語(ふきご)」心にもない綺麗ごとを言わない。
「不悪口(ふあっく)」悪口を言わない。
「不両舌(ふりょうぜつ)」二枚舌を使わない。

そして最後に、「身・口・意」の「意」。心です。
「不慳貪(ふけんどん)」欲張らない。
「不瞋恚(ふしんに)」憎まず、怒らない。
「不邪見(ふじゃけん)」間違った考え方をしない。

以上、十の教えを実践するだけで、仏に成ることができるのです。とても簡単なことではないですか。当たり前のことです。子供の頃から、両親に教えられてきたことです。しかし、この十の行い、戒めを完璧に実践することは、たいへん難しいことなのです。この実践を「十善戒」と申します。

不殺生(ふせっしょう)

むやみに生き物を殺さない

不殺生

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~眞澄の解説

私の長男が子供の頃、おそらく小学5年生の頃だったと思います。 「ねえお父さん、人間が食べたり飲んだり、口に入れるもので、命が無い物ってなに?」と私の顔を見ながら聞いてきました。 「さて、この子は一体なにを考えているんだろう?」と思いましたが、まじめに考え、答えました。私の知識と、経験から導きだされた答えは、「水と塩」でした。
人間が生きていくには、たくさんの命をいただいています。犠牲にしています。殺しています。なにも肉や魚などの動物の命ばかりでなく、植物の命も頂戴しているのです。
映画、「ターザン」だったと思いますが、そのワンシーンにこんな言葉がありました。「なぜ、お前たち(文明社会に暮らす人間)は、食べないのに、ぞうやワニを殺すのか?」という台詞がありました。ターザンたちの、ジャングルに住むものは、食べるもの以外の命は無駄に殺したりしないのが、当たり前のことなのです。しかし、私たち人間は無用な殺生を日々繰り返しているのです。
一切の殺生を禁ずれば、水と塩しか口にすることしかできません。ふつうの人間ならば、10日も、もてばいいほうでしょう。ですから私たち人間は、常に他者の命を頂戴して、生きていることを自覚し、無駄な殺生をしないことを心がけねばなりません。食べ物を残さないということも、大切なことです。日本は年間に排出する残飯の量が世界でもトップクラスだと聞きました。
食事をするとき、「いただきます」というのは、命を頂戴すると言いう意味なのです。心から、他者に対して、感謝する心を大事にしましょう。

 

 

 

不偸盗(ふちゅうとう)

盗みをしない

不偸盗

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~眞澄の解説

他人の物を盗まないということですが、お金や財産、土地などを占有して他に分け与えないということも、偸盗になると思います。万引や、強盗などはもってのほかですが、人から、本や資料などを借りといて忘れてしまう。待ち合わせ時間に遅れて、相手の時間を無駄に過ごさせてしまう。よくあることですが、自分でも常に反省しなければならないことです。
しかし、世の中には、なぜ盗んではいけないのか、という人もいます。
法律で禁じられているから、人が迷惑するから、いろいろな理由を挙げることはできますが、根源的には、仏教徒として、大切なことは布施行をしなければならない、ということです。盗みと布施とは相反するものです。他のものが欲しいと思うことは、その物への執着に他なりません。十善戒は幸せになるための方法なのですから、執着から離れて、即幸福になることができるのです。盗みは他者から、制限されるべきものではなく、自己の幸福実現のための手段なのです。

 

 

 

不邪婬(ふじゃいん)

男女の道をはずさない

不邪婬

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~眞澄の解説

お釈迦様の時代、弟子やお釈迦様を慕って集まってくる人たちには、女性も男性もいました。しかし、お釈迦様は男女別々の場所で修行するように指導されました。人間の本能として、異性を求め、子孫を残そうとすることは、拭い去ることはできません。だからこそ、成仏を求めるためには、邪(よこしま)な心を起こす元となるようなことは、なるべく排除しなければならないのです。
高野山もその昔は女人禁制でした。修行途中の僧侶は、仏心をおこしても、まだまだ誘惑には弱い存在なのです。決して女性が穢れているなどという誤った認識ではありません。その後、時代もかわり明治以降は僧侶でも結婚し、家庭を持つことが認められるようになりました。
さて、今のこの時代、男性と女性はどのように関わっていくのか、大変難しい問題だと思います。男女の関係、特にその中でも純粋に異性を愛するということをどのように考えればよいのでしょうか。
あるとき、当時70歳を半ば過ぎておられた私の尊敬する大先輩がおっしゃいました。「夫婦は50年過ぎて、本当に有難さがわかるもんだ。心から妻を尊敬できる。心から感謝している、今まで人生をともにしてくれてありがとう。」これが本当の愛だと感じました。いろいろな経験をし、時を過ごし、喧嘩もたくさんしたかもしれない。言葉で表現することは難しいですが、純粋で清らかな男女の関係だと思います。

 

 

 

合掌(がっしょう)

合掌

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~眞澄の解説

一歳になる娘は、小児喘息の傾向があると診断され、疲れたりすると、高熱に悩まされます。時々、朝の勤行に一緒に連れて行き、一緒にお参りします。「本尊様に、お願いしようね。丈夫な体になるようにお願いしようね。」といいながら、手を合わせさせます。私が初めて合掌したときのことは覚えていませんが、おそらく、祖母に教えられたような気がします。こうやって、親から子へ、子から孫へと伝えていくことが大切だと思います。
我が家では、食事をいただくとき、金剛合掌して、「いただきます」といいます。私の手元を子供たちが不思議そうに見ながら、「何、その合掌?」と尋ねられました。「右手の仏様と、左手の私がしっかりと握手しているんだよ、こうしておけば、気が緩んでも合掌した手が離れ離れにならないからね。不安になっても、仏様と一緒なら安心だからね」と答えました。「ふうん」と言いながら、成人した息子と娘は、今でも金剛合掌をしています。
インドやネパールを旅していると、「ありがとう、ごめんなさい、おはよう、さようなら。」大概のコミュニケーションは、言葉がなくても合掌で通じます。ごく自然に動作として現れます。私は、若い頃、人前で合掌することに違和感がありました。それは、ポーズとしての合掌でしかなく、本当に心から現れたものではなかったからです。
歳を重ね、子供ができ、たくさんの人々とかかわりを持つようになり、初めて人のありがたさを実感し、素直に感謝することができ、今健康であることに、心から喜びを感じています。そして自然に合掌をします。
南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛

 

 

おせがき

おせがき

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~眞澄の解説

読んで字のごとく「餓鬼に施す」という意味です。ここでいう「餓鬼」とは何でしょうか。「餓鬼」というのは見えないし、見たこともありません。地獄にいるものなのでしょうか。いいえ違います。
「餓鬼」は自分自身の心の中にいるのです。言い換えると「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」の「三悪(さんあく)」なのです。貪(むさぼ)りの心、怒(いか)りの心、愚(おろ)かな心です。仏の功徳は、これらの、醜い心を、浄化し、清らかなものにしてくれます。
この「お施餓鬼」を行うと、なぜ先祖や、なき御霊の供養になるのでしょうか。それは、仏の行いを自ら実践することで、自分自身が成仏できるからなのです。自身が仏に成ることこそが、先祖の安らぎに直結しているのです。
これからお盆が近づいてきますが、お盆だけでなく、常に実践したいものです。このリーフレットを読んで、感じたままに行動しましょう。

 

 

追善供養

追善供養

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~眞澄の解説

以前、こんな言葉を耳にしました。「死んだらお仕舞、お墓に布団は掛けられない」という話です。なんとなく意味はわかるような気がしますが、納得がいきません。この言葉で片付けられることは、ただ単に楽をしようということではないでしょうか。自分本位な考え方ではないでしょうか。
またあるときこんな相談を受けました。お葬式が終わって、初七日のお参りが済んだ後、故人の妹さん、お二人がおっしゃいました。「私たちは遠くに住んでおります。早く納骨できませんか。」と。四十九日まで待っていられないという意味です。「別にあなた方のために、お経をあげるのではありませんよ。あなた方がいなくても、いっこうにかまいませんよ。」と、そんな気持ちになってしまいました。
しかし、この私の考えは過ちでした。供養というのは養いを供えると書きます。なにを養うのか。それは私たちの心を養うということなのです。
お経には、自分たちがこの世でどのように生きていけば良いのか、何をどのように実践すれば幸せになれるのか、こと細かく解説してあります。亡き精霊を供養することで、知らず知らずのうちに、私たちの心が養われているのです。徳が備わっていくのです。
日々の生活の中で、仏様と、ご先祖様に感謝いたしましょう。素直に感謝する心を持つことができることが、唯一の幸せなのです。ありがとうございます。
合掌

 

 

南蔵坊の阿弥陀さま

南蔵坊の阿弥陀さま

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~眞澄の解説

善照寺の位牌堂に安置されている、阿弥陀如来様の不思議な縁起を絵本にいたしました。
善照寺第四十二世の住職、吉田興澄大僧正が念願していたものが、やっと形になりました。病床の枕もとで、話を一つ一つ丹念に紐解き、記録しました。住職の心がつまっています。

「僧侶として、最も大切なものは信仰である。信仰がなければどんなにお経が上手でも、どんなに立派な伽藍を整備しても、それはむなしいものなのだ。僧侶に信仰さえあれば、また、自然と大衆の信仰も集まってくるのだ。」

 

 

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